第二巻より。職務上の理由から「姉弟」というテイでの同棲が始まったルドウィル&ヴィクの二人。 絶対に恋人にならなさそうな二人のぎこちなさには、むしろ安心感さえ覚える。 |
この記事を書いてからもう2年経ってるってことに驚き。あれから新刊出せてないですね、ごめんなさい(Kindleに見切りをつけたこともあって、今後の新刊は紙で出すことになると思います。で、空中要塞シリーズの紙媒体化を進めようかなと現在計画中の段階です。いずれやることは確定しているんですけんども、今はなんだかガッツがなくて……。春あたりからDTP作業を開始できたらいいなって思ってます)。
旧作の大改訂も終わり、そして最近「ジェットブラック・ジグ」を整理というか、振り返る機会に恵まれたので、そのときに思ったこととか、書き留めておきます。
「ジェットブラック・ジグ」そのものについて
2019年の12月ごろからダラダラと書き続けて、3年を超えたよ。いつまで「ジェットブラック・ジグ」を書いてんだよ、そろそろ次に移ろうや!と、幾度となく思ったりもしているんですが。同じタイトルの作品をずーーーっと書き続けているせいで「ダラダラ」という錯覚に陥っていましたが、振り返ってみると執筆ペースは決して遅くはなかった。
1年で22~24万字を書いている。これはつまり、1年で一冊分を仕上げるペース。これはペースとしては今までと変わりない。それどころか、他のことやりながら書き続けているわりには、むしろ安定した比較的早いペースを維持できているぐらいだった。
まあ、なんとかなるさね。いつもそうだったもの。
最初は「序破急(幼少期・青年期・壮年期をそれぞれ振り返るかたち)」の三部構成にしようかと思っていたのに、気付いたら文章量が増えて「起承転結(上述に加えて、死後の生を得た後の振り返りも追加)」の四部になり、今は「いや、五部構成にしたほうが色々と都合がいいかもしれないな」とかと思い始めている。
これは、本当に……「プロット」ってやつを用意していないことが理由。いつも小説を書き始めるときに、最初に用意するのは章題だけなんすよ。ざっくりとした話の流れは、自分の頭の中にしかない。だから良くも悪くも、柔軟に物語が変化していく。増えたり減ったり、当初の予定から大きく変わったり。
それでも今まで「完結」まで持っていけてるんで、今回もそんなに心配はしていない。エタることだけは絶対にないから。
「ジェットブラック・ジグ:②憤懣の門灯」について
第一巻「軋轢の門戸:A Gate of the Strife(ep.01~ep.05が第一巻分に相当)」は、主人公シスルウッドないし"アルバ"がまだガキだった頃の話。で、第二巻「憤懣の門灯:A Lamp of the Wrath(ep.06が第二巻分に相当)」は主人公がティーンエイジャーだった頃の話になっている。
主人公の言動に執筆者も引っ張られたせいで辛かった第二巻
いつぞやの動画より。 「世間」に主たる原因があるせいで、根本的な解決が見込めない問題ってあると思う。 彼の抱えている問題の大半は、彼自身には解決できないものばかりだった。 |
第二巻ではシスルウッドが嘔吐してるシーンがいくつかある。このシーンの前後で、書いてる本人も吐いてた。まあ、大半は片頭痛によるものだったけど。執筆によるストレスとでもいうんですかね。これも作用してたんでしょうか。
んー、にしてもだ。なんというか、振り返ってみると第二巻を書いてたときが本当につらかった。以前「ヒューマンエラー」を書いてた時は自分自身がかなり病んでて、それを誤魔化すためにワーーーッと執筆にのめり込んでたフシがあったけど。ジェットブラック・ジグ第二巻に関しては、書いてる内容の所為で病んでしまっていたなと感じる。
ゲロるシーンもそうだけど。主人公が怒りっぽくなってるシーンでは、実生活の中で自分も少しピリピリしてたし。主人公が泣いてるシーンでは、自分も泣きながら書いていたという。主人公の中にのめり込みすぎて、崩壊の一歩手前に居たかもしれない。
今は、もう大丈夫。主人公の情緒が乱高下するシーンは乗り越えたので、作者本人も落ち着いている。だから、これは過去のことだけど。いやぁ、第二巻分の内容は書いてて本当にしんどかったなー。
あと、リチャード・エローラ先生。リチャードさんが冷遇されるシーンが、書いててしんどかったの!! リチャードせんせーーーー!!!!!!(思い出すだけで悲しくなる……尚、詳細は2年前の記事参照)
サビ猫オランジェットは悄々とした物語の中の癒やし枠
いつぞやの動画より。 この猫はバーン家の看板ネコの一匹、イシュケである。 バーン家の猫であるイシュケ&ビャーハは、ブレナン家の保護猫出身。 |
「ジェットブラック・ジグ」には多くの猫が登場する。中でも描かれる機会が多いのが、ブレナン家の看板猫たち。ブチ猫パネトーネ、サビ猫オランジェット(オーリー)、黒白タキシード猫ボンボンの3匹である。
ローマン叔父さんラブで、それ以外の人間には素っ気ないパネトーネ。猫が好きで猫には構うけど、人間には然程関心がなさそうなボンボン。反対に、人間が大好きで誰にでもすり寄るオランジェット。……そんな感じで個性豊かな3匹になっている。
中でもとびきり可愛い癒やし枠が、サビ猫オランジェット。オランジェットは第三巻でも可愛さを発揮し、ゴチゴチに凝り固まった主人公の警戒心をするっと解いて懐に飛び込んでくるけれど。個人的には第二巻のオランジェットが一番可愛いというか、癒やしだなぁと感じてる。
色々とつらい出来事が重なって、ついローマン叔父さんにキツい八つ当たりをしちゃうシスルウッドのあのシーン。あれはシスルウッド側もつらいし、受け止める側のローマン叔父さんもつらい。けど、そこに「サビ猫オランジェット」という緩衝材が入ることで、話の重苦しさは多少軽減されてると思う。
猫の癒やしって、犬のそれとは違って少し特殊なんだよね。犬に居心地の良さを見出すひとは、別に犬じゃなくても満足できたりするもんだけど(例えば、意見の合う友人がいれば、その友人との会話で満足できると思う)。猫が良い人の場合、猫以外では駄目だったりする。
静かで、暖かくて、愛らしいワガママを連ねてくる猫。それは喧騒に満ちた人間社会の悪しき側面にがんじがらめにされて疲弊した人の心に、ピタッとハマる何かがある。
猫は素晴らしい。猫は偉大なのだ……(ಠωಠ)
誰の「靴」を履いても、しんどくなれると思う。でも。
いつぞやの動画より。 ガチギレ顔のアーサーは静かに怖いイメージがある。 |
ジェットブラック・ジグのひとつのテーマは「to put yourself in their shoes(相手の靴を履いてみろ=相手の立場になって考えてみなさい)」だと思う。そういう意味において、第二巻は誰の立場に立ってもしんどくてツラい内容だった。
みんなそれぞれに言い分があって、事情があって、背景があって、出来ることと出来ないことがあって、不満の末に起こすアクションも違って、見えているものも違って、思慮の程度も違って……――似たような傾向はあるかもしれないけど、それぞれが微妙に違っている。なので第二巻では、なるべくそれぞれの「靴」を細かく書くようにしていた。
けれども。色々な「靴」を書いてみて、個人的に思ったのは「相手を思いやれない、その意思を一ミリも見せない靴は踏んづけちゃっていいんではなかろうか」ということかな。それは自己防衛という意味で必要なことだと思う。
たとえば「ロワン・マクファーデン」や「アーサー・エルトル」のような靴。それは踏んづけて蹴っ飛ばして追い出したほうが良い靴であることは間違いない。とはいえ「セシルじいさん」みたいにキッカケさえあれば分かり合える(もしくは妥協できる)人だっているだろうから、意見が食い違うからと言ってすぐに蹴っ飛ばすべきではないけれど。世の中、どうしようもないクズってのはやっぱりいる。
うーん、ロワン。このキャラは明確にモデルがいるので、特にそう思います。話が通じないというそれ以前の問題のひとっているよね。相手を理解しようとしないし、初めから相手を踏んづけて先に進んでやろうとするつもりでいるひと。あと、加害側でありながらも被害者ヅラするやつというか。
そういうのは睨みつけて蹴り返して「二度と近寄るな!」と威嚇するのが一番だと思う。だって、そういうタイプと建設的な話なんてできないし、分かりあえる未来なんて絶対にこないから。だって、相手がそもそも理解のドアを閉ざしているんだもの。
その場合、逃げるか追いやるかの二択しかないよね。残念だけど、誰もが共感性と思いやり、思慮深さや道徳心、そして知性を持っているわけじゃないから。同じテーブルに就けない相手とは付き合う価値もないと思うんだ。
「彼には見えていない」けれど「確実に存在しているゲットー」
これは第三巻にも言えることではあるのだけれど、シスルウッド視点で“誰か”を見たとき、その対象は一個人としか見えないように書いている。ザックはザックであり、ブリジットはブリジットであって、スーザンはスーザンでしかない。そのひとの所属しているコミュニティないしゲットー、そしてそのひとが持つ属性とかが敢えて書かれていないのだ。
というのも、シスルウッド自身がそういうものの見方しかできない人物だから。個人同士の付き合いの中において、相手の属性や所属先を気にしないのは彼の長所であり、短所でもある。そういった彼の「視点」を映し出すには、そういった書き込みは最小限にすべきだろうと考えた末に、ああいう表現になっていた。
なぜ、シスルウッドがそういう視点を持つ人物になったのか。これは第一巻の中で書こうとして、省いちゃったものではあるんだけれど(またはどこかで書いたけど、それがどこだったか忘れただけかもしれない)……――まず、一番の背景要因として上がるのは幼少期の経験。彼が幼い頃、彼の周囲に居たのって爺さん婆さんばっかりだった。年長者たちに可愛がられる子供の役に徹するばかりで、子供らしくはっちゃけて遊ぶ機会が彼にはあまりなかった。
彼が同世代の子供と遊べる機会は限られていて、それは育ての親であるドロレス叔母さんが定期的に開催する「出張図書館」イベントについていったときだけ。で、幼少期の彼にとってそのイベントは「同い年ぐらいの子と走り回って遊べる!!」唯一の機会であり、それが最高に楽しかった。
そんな彼にとって「同い年ぐらいの子」であれば遊び相手は誰でもよくて、相手がどこの誰でどんな人間であるのかはクソほどどうでもいい事柄だった。まず相手を選んでいられるほどの余裕なんて彼にはなかったでしょうね。そこでしか、同い年ぐらいの子と会えないんだから。母語、肌の色、帰依する宗教など、そんな違いなんてどうでもいい。一緒に遊べればそれでいい、と。
更に、育ての親であるドロレス叔母さんが「白人至上主義を地で行く実家に愛想を尽かして出て行った人間」であり、その配偶者であるローマン叔父さんも「超絶まともな一般人」であることも影響している。のちにエルトル家という環境に捕らわれながらも、シスルウッドがその家の思想に染まらなかったのは、育ての親であるドロレス&ローマンのお陰。
……――とはいえ現実がそうであるように、差別と区別、もしくは「社会的に有能であるとされた働き蟻の側の人間か、無能な消費者として社会に切り捨てられた存在であるか」の問題はあからさまに存在していて、それは「みんな仲良く手を取り合って」なマインドでは片付く話ではない。「表には見えない」というかたちで蓋をしたところで、何かの拍子にポンッと表出化してくるものである。
スーザンが「華僑をルーツに持つ女の子」だと明らかになるのは、ケヴィンがシスルウッドに抱いていた逆恨みを露わにするシーンであるし。そのケヴィンが「中華料理屋の跡取り息子」であることが判明するのは第三巻の喧嘩別れの中でのこと。また、同級生でケヴィンやザックらの仲間であるデクランが「黒人ゲットーに雁字搦めにされた結果、そのゲットーに隷属することを不服ながらも選んだ」ことが判明するのも同シーンでのこと。
そして、どうあがいたところでシスルウッドが「極右政治家の息子」である事実は消せず、本人の思想や言動がどうであろうと「あの父親の息子だから」と一蹴されてしまう。
このテのことには解決策なんてないんだと思う。文化や身体的特徴の違いを誇り、そして烙印とする限りは永遠に続く。ただ、せめて「相手に暴力的な行為を働かない」とか「ハラスメント行為をしない」やら「世界人権宣言を履行する」といった、最低限の人間性の部分を共有できれば、少しはマシになるのかもしれないけれど。それすらままならない現状を見る限りでは、なにひとつ希望は抱けないなって気がしている。
「ジェイミー=カーステン・シュナウザー」って誰だろうね?
いつぞやの動画より。 頭の中をすっからかんにしたとき、シスルウッドの頭の中に出てくるのはこういう世界だと思ってる。 よくわからん生物が人間社会を滅ぼす図というか。 あと猫。彼の頭の中には猫がいっぱい。 |
第二巻には、ある小説が登場する。「草原の狼:ジェイミー=カーステン・シュナウザー著」という、アメリカ開拓時代が舞台の物語。ちなみに草原の狼とは、つまりコヨーテのこと。
そして「草原の狼」という本だけど、これは架空の小説です。実在しません、こんな本。ジェイミー=カーステン・シュナウザーなんて人もいません。こちらも架空の人です。
こういう西部劇だったら観たいな、っていうのを「草原の狼」を介して書いてみた感じです。というのも、洋画はたくさん見るけど西部劇だけは本当に嫌い。好んで見たりはしないジャンルであることは間違いない。
やっぱり、歴史的背景をどちらかの都合が良いように書き換えたものって気に入らないですよね。それに西部劇の中で描かれる「アメリカ先住民」の描写はその殆どが誤りであり、一方的に悪く描かれていると聞くし。実際に見たとき、先住民の扱いに違和感を覚える作品は多い。
いや、西部劇っつーか、アメリカの歴史観そのものかな。それそのものに「あ?」って感じたりもする。イギリスとかだと、歴史の授業の中で「先祖が過去に世界各地で働いてきた悪行の数々」を生徒たちがゲロを吐いたり泣きじゃくるほど苛烈に教えるという話を聞いたりしますが(その点、日本の歴史教育、特に幕末以降の授業内容は生ぬるいなと感じる。日本だって悪行のオンパレードなのに)。アメリカ人の語るアメリカ史もとい世界史は、外国人からすると理解に苦しむものだったりもする。
ティラノサウルスのいた時代に二足歩行の人類が居た(聖書の教えが絶対に正しいとすると、そういう理解になるらしい)とか、広島・長崎への原爆投下は正しい(ただし若い世代では「あれは誤りだった」という認識が広まりつつあるとか)とか、そんなのは序の口。一番怖いなって思うのは南北戦争と、それ以前の自国史に対する認識。
たとえば、黒人奴隷を解放したリンカーンだけど、その一方で先住民には苛烈な迫害もとい虐殺を働いていた。そしてリンカーンの掲げていた言説は、今を生きる"日本人"からすると、かなりゾッとする内容になっている。でも、そのリンカーンの「暗黒面」は省かれて教えられやすく、そのため「偉大なるアメリカの正義の人」として挙げられやすい。
リンカーンの所業は、アメリカの人種差別の歴史そのものだ。「アメリカにおける黒人は、白人の築いたアメリカ社会に役立つ存在だから、同じ人間として扱ってあげる」けれども「先住民は白人の邪魔になる存在でしかなく、やつらは人間ではない(?!)から、じゃんじゃん駆除すればいい」という政策方針。おぞましさしか感じないけれど、今もその精神性は見えないところであの国に根付いているなと思う。社会の役に立たないマイノリティは殺せばいい、と。だからポリコレというかたちで強硬な反動が出てくるんでしょうねぇ。
でも、今でも少数ながらアメリカには数世紀前の人物であるリンカーンと同じことを言う集団が存在している。恐ろしいことだけど、それが現実だ。
なので、映画「アダムスファミリー2」が好き。あの演劇シーンは本当に最高。あれこそ、まさしく自分が見たい西部劇が凝縮されている。
魔法の言葉「Tá sé in am seo!!」は没シーン由来のもの
いつぞやの動画より。 ギルの羽根を毟るのは、体力も気力も消耗する行為です。 |
アルバが作中で放つ謎台詞「Tá sé in am seo!!(ター・シェ・イ・ナム・シャ)」。これはアイルランド語です。文脈の流れを汲んで訳すと「覚悟しろ!」みたいな、そういうニュアンスになりますかね。そしてこの台詞は第一巻でカットしたシーンに由来するものになっています。
バーンズパブの店主、ライアン・バーン。彼にはいくつか趣味があり、うち一つが「手品」だった。で、手品を披露する際の決め台詞が「Tá sé in am seo」。そしてライアンは孫息子みたいなもんであるシスルウッドに手品も教えていて、シスルウッドにその決めセリフも伝染し……――みたいなシーンが過去にあったんですよ。
でも、手品のところはまるっとカット。ライアンは作中で手品なんてしないし、そういう趣味があるような描写さえもない。でも「せっかくの設定、ただ消してしまうのはもったいないな……」と思い、決め台詞のみを出した。それがアルバの謎台詞の全貌です。
いつぞやの動画より。 アルバの魔法は、つまりこういうこと。 |
「ジェットブラック・ジグ:③夕潮の門塔」について
第三巻「夕潮の門塔:A Tower of the Tide(ep.07が第三巻分に相当)」は二〇代の主人公と、その周囲の様子をギュギュギュッとダイジェストで送るかたちになっている。
シスルウッドは悪いやつではない。が、図々しい人物であることは間違いない。
キャロラインとシスルウッド。頭一個分ぐらい身長が違う二人。 シスルウッドが高身長なのは、実母がド田舎のくそでかハイランダーの血筋であるから。 170cmかそれ以下の身長が多いエルトル家で彼は異色の存在だった。 |
第一巻には、以下のようなサニー・バーンのセリフが登場する。
「あんたは結構、ちゃっかりしてるよ。チップをせしめる技術はピカイチだし、なんだかんだで図々しいとこがあるしねぇ」
しかし、第二巻までの内容では「シスルウッドの図々しい一面」はそんなに出てない。むしろ彼はずーっと我慢し続けてる側なのだけれど。あらゆる抑圧から解放されるとこから始まる第三巻のシスルウッドは、まさしくフルスロットル。
ブリジットから「最低のクズ野郎」等と罵倒されてきたシスルウッドの本領が発揮されてるシーンが多々あるし。気まぐれで良いヤツになる瞬間もそれなりにある。「猫ォォッ、ネコに会いたいィィィッ!!」と気が狂うときもある。友人の子供のことを「なんだ、このクソガキは……」と見下す邪悪さも見せる。そして友人にして恩人のクロエから「お前、三歳児レベルなとこあるよな」とぶった切られたりも……。
そういうわけで、第三巻は書いててメチャクチャ楽しかったです。笑顔で毒を吐きまくり、猫にデレデレし、妻にデレデレしながらも義母を「クソババァ」とこき下ろし、そして紅茶に角砂糖をドバドバと投入しまくったり、たまに過去の行いを盛大に後悔して凹む狂人シスルウッドは、とても楽しいやつですよ。
「ブリジットの見ていたペルモンド」と「シスルウッドの見ていたペルモンド」の乖離はかなり大きい。
先日、大改訂を加えた「ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ」。この中でペルモンドの言動が大きく変わり、ペルモンドはそこはかとなく怖い雰囲気を放つ存在になった。
でも「ウォーター・アンダー・ザ・ブリッジ」で取り上げられるペルモンドの姿って、ブリジットに振り回されているペルモンド"だけ"なんだよね。ブリジットにとって都合のいいようにふるまうペルモンドであったり、もしくは周囲の友人視点で見たときのブリジットに怯えるペルモンドの様子しか描かれていない。
意識どっか行っちゃってるときのペルモンドは、色々とヤバい。 |
というわけで、ブリジットという要素を抜きにした「ペルモンド」を描いたのが第三巻でもあった。
彼そのものの本性はさておき。「ペルモンド」という人格の素は、結構かわいいひとだったんじゃないのかなと、そう思ってる。わりと健気で、自分にできることなら何でもしてあげるっていうタイプというか。尻尾ぶんぶん振りながら、好きなひとのあとをスタスタと付いていく忠実でフレンドリーな犬っぽい感じ。でなけりゃエリカみたいなTHE・善人があんなのを好きになるはずない!!!!!!!
なので、そういう側面をもっと出せたらなって思ってたんだけどさ。尺がな。足りなくてな、ほとんどカットしたよ。「健気でかわいいペルモンド」が残ったのはワンシーンだけ。無念!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
で、残ったワンシーンについてだけど。たぶんペルモンドは、あのフィドルを「あいつ、喜んでくれるかな……(ドキドキ」みたいに顔赤くしながらコソコソ作ってたと思います。――(あんな顔じゃなかったら)かわいいやつ(だったのになぁあああ)!!!
とかなんとか、作者の頭の中にある"ペルモンド"ってそういうかわいいやつなのに、物語に出てくる彼にはそういう要素があんまりない(省いてしまったので)。荒んだ末に崩壊したペルモンドだけが作中に残った感じになった。
悔しい、悔しすぎる。ぬあぁっ!!!
デリックはあと一歩遅ければ、あんなことやこんなことになってたかもしれない。
そもそもペルモンドには「合意」という概念すらない。 彼は求められるがまま隷属するだけ。そうするよう「躾け」られている。 |
第三巻、そのしょっぱなから「クズ野郎」とクロエから罵倒される男。それがデリック・ガーランドというキャラクター。
デリックは最初から最後まで、ずっと「クズ野郎」と様々な人物から蔑まれるし。言動もそれなりにルーズでクズいけれども。クズ度合いでいったら、作中には彼をも上回る正真正銘の「人間のクズ」がたくさん出てくるので、まだかわいいもんですね。アーサー・エルトルなんていうやつと比べりゃ、赤ん坊みたいなもんだ。
とはいえ、デリックが「クズ野郎」であることは事実。それにデリックがペルモンドに対して行っていた仕打ちの数々はゲスとしか言いようがない。ペルモンドのアイディアを無断で持ち出したり、ペルモンドに借金を肩代わりしてもらったり。それだけでも十分クズだが、それ以上のことをしている。それも「嫌なことが起きたら、関係すると思われる直近の記憶ごとごっそり消してしまう」というペルモンドの生態を悪用して、散々なことをしてきた。
クロエにプライドをへし折られて心をズタズタに切り裂かれるほどの説教を喰らったことにより、デリックは無事改心したものの。クロエの説教があと一歩遅ければ、彼は間違いなく殺されていただろう。ペルモンド、ないし彼の内側に隠されている本当の彼「ジャフ」によって。
デリックとペルモンドの間にあることは、作中では軽くしか触れられていない。彼らの関係については「彼らしか知らない」みたいなところがあるし、主要な視点人物であるシスルウッドもその関係を深くは知らない。
ただ、一言でまとめると二人は「支配と服従」というような関係であり、健全な友情でなかったことは間違いない(なので真っ当な常識人であるユーリは「デリックのことが大嫌い」で「デリックと縁を切るよう、何度もペルモンドを説得していた」わけである)。
そしてペルモンドの内側には植え付けられたトラウマと少年時代から残っている癒えてない傷痕があって、さらに「ジャフ」が抱え込んでいる鬱積がある。そんなペルモンドに対してデリックは、トラウマをほじくり返すような真似を何度も行っていた。また、その行為は爆弾「ジャフ」の導火線に火を点けかねない行いでもある。いうなれば、チキンレースですよ。デリックが殺されてないことが奇跡みたいなもの。
デリックの天敵ユーリ。そしてデリックの"女王様"こと元カノのクロエ。 この二人のいずれかが傍にいるとき、デリックは悪さを働けない。 |
ペルモンドがギリギリのところで踏ん張っていたこと、そしてイヤな予感を察知したクロエが裁きの鉄槌を早いうちに下したことで救われたようなもんです。
普段は臆病なチキンのふりをしていたペルモンドだけど。彼の本性はウールヴヘジンですからね。理性が吹っ飛べば最後、敵味方の区別なく切り裂いていく狂戦士ですから。デリックはペルモンドの理性が持ちこたえたことに感謝をするべき立場ですよ、冗談抜きに。
「ジェットブラック・ジグ:④葬送の門火」について
第四巻「葬送の門火:A Fire of the Funeral(ep.08が第四巻分に相当)」は死んで生き返って“アーサー”になった主人公と、旧作の内容をアーサー視点で振り返るかたちになる予定。
クソ野郎と化す前の「アーサー」の話
どっしりと構える大ボス、マダム・モーガン。そして飄々とした参謀役、ジャスパー・ルウェリン。 この二人によって「特務機関WACE」の調和が維持されていたところが大きい。 しかしジャスパーが死に、マダム・モーガンは更迭。その二人の代役を押し付けられたのがアーサーだった。 しかし、新参者かつ病み上がり(?)のアーサーには土台無理な話なわけで……。 |
生前の彼である"シスルウッド"と、死後の彼である"サー・アーサー"。彼らは同一人物でありながらも、性格が微妙に異なっている。これには「死んで生き返ったせいで、脳が変性してしまったから」という理由もあるけれど、もう一つ別の理由がある。それは死後に彼がおかれた環境、特務機関WACEというストレスフルな場所。その環境が彼に与えた負の要素は大きく、ここでかなり性格が捻じれてしまったフシがある。
まあ、これらについてはまだ描き途中なので。第四巻分の内容が完結してから、また記すとして……。
今、ちょうど書いているのが「死んで、生き返って、覚醒した直後のアーサー」のお話。彼の取柄である記憶力が機能を喪失し、自分がどこの誰だったかさえ思い出せない状態のぼんやりしたアーサーがちょこまか動いているシーンを現在書いているところです。
中途半端に「シスルウッド」の面影を遺しながらも、しかし微妙に違う「アーサー」の姿。「サー・アーサー」に変貌する前の彼は、なんとなく間抜けな感じなので書いてて楽しいです。
まあ、今後の内容については連載の更新をお待ちください。
そんなわけで、備考集でした。