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怒れるアイルランドがあなたを傷付け、行動に追いやったのか?

(シネイド・オコナーのYoutubeチャンネルがあることを今まで知らなかった。こんなかたちで知りたくも無かった)

 「メジャーシーンに限った場合)好きな歌手は誰?」と問われたとしたら。同時に浮かんでくる顔が5つある。自分の中でその5人に優劣を付けたくないので五十音順に紹介すると、アデルエンヤケイト・ブッシュシネイド・オコナードロレス・オリオーダンとなるだろう。

 この全員に共通項がある。ヨーロッパの「島国」の出身。尚、この共通項に気付いたのは記事を書き始める直前だった。アデルとケイト・ブッシュはイングランド出身だし、エンヤとシネイド・オコナーとドロレス・オリオーダンはアイルランド出身。島国……同じ島国の文化に自然と心が惹かれるのでしょうかね?

 そして、先日(2023年7月26日)。シネイド・オコナーの訃報を見て、息を吞んだ。メールをチェックするためにYahoo!Japanのトップページにアクセスしたら、否応なく飛び込んできたその情報に……本当に言葉を失くした。ショックで、すぐに文章を書こうとは思えなかった。情報を整理する時間が少し必要だった。

 シネイド・オコナーといえば、近々アルバムをリリースするといった噂を昨年だか今年の頭にだか聞いていたのだけど。アルバムリリースの前の、この訃報。この出来事は必然的にドロレス・オリオーダンを思い出させた(ドロレス・オリオーダンも、アルバムのレコーディング中に亡くなっている。彼女の所属するバンド「クランベリーズ」の最期のアルバム「In the end」は、最も気に入っているアルバムの中のひとつだ)

 そうしてモヤモヤしながらも、なんとなく気が向いたのでW.B.イェイツの詩集を手に取って、流し読みしていたとき。モヤモヤとしていたものが言語化できそうな気がしたので、書くことにした。

(思いつくままにドドドンと書き進めたので、乱文になっている。後日、内容に手を入れるかも)

アイルランドという「混沌」が生んだ傑物たち

クランベリーズの「Zombie」はとてもアイルランド的な風刺だ。
そして動画の中のドロレス・オリオーダンは「ドロレス」の名に相応しく、
悲哀を一つ一つ掬い上げる女神のようでもある。

 アイルランドの音楽もとい詞は、他の地域と比べると特異な存在であるように感じている。とはいえそれは、日本において強く喧伝されている「牧歌的」だとか「神秘」といったイメージではない。明るさや軽妙さの中に、激烈な感情と猛毒のような闇を隠し持っている、そんなイメージを「アイルランドの文化」に抱いているのだ。自分の場合は、という話になるけれども。

 牧歌的で能天気なようにも思えるアイルランドのトラッド・ミュージックは、しかし民族的・文化的にも抑圧され続けてきた長い歴史を内包しているし。アイルランドの「アイル、または、イール(古愛: áer, 現愛: aoir)」は日本語に訳すると「風刺(それも、かなり強烈な罵倒。権力者に楯突くための『武器』という意味もある)」という意味。これはつまりアイルランドが“ペンの力”を重要視してきた、という歴史の裏返しでもある。

 また、アイルランドには今もなお複雑な政治情勢や問題があり、分断がある。北アイルランドの問題やIRA、そして宗教。今は経済発展が目覚ましく、どこか視界から追いやられているようにも見えるそれら問題は、しかし解決しているわけではない。

 アイルランドとイギリスとの関係は、エリザベス女王の尽力もあり(傍目には)融和が進んでいるように見えるが、しかし今もなお残っている北アイルランドの問題を見れば分かる通り、すべてが綺麗に解決したわけではない。日本と韓国の関係が一筋縄ではいかぬものであるように、『全てにおいて劣っていて遅れた国アイルランド(ジャガイモ飢饉は当初『バカなアイルランド人が話を誇張して過剰に騒いでいるだけだ』と見過ごされていた)』と『全てにおいて進んでいる国イングランド』という、遥かに根深い溝が両国の間にはあるのだから。

 そして我々、他国の人間が『アイルランドの神秘』として消費している伝承たちは、イングランドとの関係の中で失われた『アイルランド人の尊厳』を取り戻すための文化的闘争の中で、積み重なった塵埃を払われ輝かしく蘇ったという経緯があるし。それは即ち、イングランドの官僚たちから嘲笑されながらも『奪われたアイルランドの誇り』を取り戻すべく邁進した人々が居たという証でもある(そして、アイルランドに伝わる伝承をまとめた民俗資料は「危険な愛国心を招き、暴動や叛逆を招く恐れがある」としてイングランドによって握り潰されそうになったという歴史的事実もある)

 国の歴史をひとつのタペストリーとするのなら。アイルランドのタペストリーは独自の極彩色の糸と、異教や他国からの侵略という傷と、被支配と抑圧の歴史という無彩色の糸を併せ持つ巨大で混沌としたタペストリーなのだと思う。

 誇りと共に傷跡と怒りも内包した文化的土壌は、世界に名を轟かせるまでに至った数多くの【傑物】を育んだ。特に、激動の19~20世紀前期。その時代には特に多くの傑物が生まれた。

 ロバート・エメット、テオボールド・ウォルフ・トーン、トーマス・フランシス・マハー、パトリック・ピアース、マイケル・コリンズのような革命家ないし過激派。ジョン・オリアリー、モード・ゴンのような勇ましき演説家。ジェイムズ・ジョイス、オスカー・ワイルド、ジョン・ミリントン・シング、ショーン・オケーシー、オーガスタ・グレゴリー、W.B.イェイツのような文芸家。代表的な存在だけでも、これだけいるのだ。

時代を先取りすぎた「諸刃の剣」

 そして、シネイド・オコナーは20世紀後期から21世紀を代表する【アイルランドの傑物】の一人になるのだろう。

 シネイド・オコナーはおそらく「アイルランドの伝説」となり、後世に名を残す歌手となるはず。現に、彼女の死後に流布される記事には彼女のことを「フェミニズムの象徴」として再構築するものが増えているし。その扱いの是非はともかく、彼女の名は残ることになるはずだ。

この曲は実際に起きた事件から着想を得て書かれた、
人種差別に異議を呈するものだった。

 彼女の信念は一貫していたと思う。彼女自身が虐待という人権侵害の被害者であったからこそ、彼女は人権を侵害されて「声を奪われた者たち」の声を拾い上げようとしていた;児童虐待や女性問題は勿論のこと、移民や先住民族の権利の擁護にも熱心だったと聞く。そして拾い上げた声を広め、同じことをこれ以上繰り返すなと世に強く訴えるために、過激とも思われるパフォーマンスをすることがあった。

 中でも、世間に大きなインパクトを与えたのが「ローマ教皇の顔写真を破り捨てる」というパフォーマンスなのだろう。

 自分はその当時にはまだ産まれていないから、ネット上に転がっている言説を伝聞することしかできないけれど。この過激なパフォーマンスが意味していたのは、アイルランドのカトリック教会が組織的に行っていた『常習的な子供への性的虐待』に関する告発。彼女のパフォーマンスは過激で不敬であったかもしれない(このパフォーマンスは、狭量なアメリカの保守層からは大批判を浴びたらしい。ジョン・レノンの「イマジン」さえ受け入れられない国民性が出てる)が、この行動によって日陰に追いやられていた問題に光が当てられるようになり、世界各所で『調査』がなされるようになる。彼女が鏑矢を放ったのだ。

 ――が、事態が本格的に動き出すのはこのパフォーマンスから10年後のこと。事態が動き出すまでの間、彼女は世界中から白い目で見られ続けていた(らしい)。

 そのように、彼女の訴え、もといパフォーマンスは常に時代の先を行っていたように思う。先を行っていたが為に、今しか見ていない人々、特にヴェールの裏側にあるものを見ようともしない人々から糾弾されたのだろう。

 彼女は光の射し込まぬ暗い闇に、鋭い刃をもってして切り込んだ。だが切り込む前の振り上げる動作で、彼女は彼女自身を大いに傷付けていたともいえる。これを諸刃の剣と言わずして、他になんと呼べばよいのだろう。

 ……こうしてシネイド・オコナーのことを書いていると、奇しくも今この国で取り沙汰されている問題を思い起こさせる。ジャニーズ事務所の常習的なグルーミングないし性的虐待と、それを告発する元所属タレントたちの姿。特に、被害を告発している当事者たちの姿がシネイド・オコナーと重なるのだ。

 ジャニーズ事務所の騒動も、20年前に裁判で「性的虐待の事実があった」と認められていたにも関わらず(お恥ずかしながら、しかしこうして書いている自分もその話はBBCが取り上げるまで全く知らなかった)、こうして問題が表出化するまでには20年も待たなければならなかったわけだし。「恩を仇で返すとはこのことではないか」と脅すようなことを言う人物もいる。仮に世間の大多数が告発者に味方をするとしても、業界の中枢に巣食っているのがこの通りゴミどもばかりであれば、告発者たちの願いが達成される日はまだまだ遠いのかもしれない。

 そしてカトリック教会のほうは、完全に膿を出しきったわけではない。今もどこかに隠れた被害者が居て、被害は生産され続けているのだろう。

 けれども。シネイド・オコナーの訴えによって、立場を利用した性的虐待は「倫理的に間違っているうえに、法律に違反する重大な犯罪である」という認識が各国で構築され始めた。犯罪者は罰せられ、投獄されているという一面もある。完全な解決には至っていないだろうが、少なくとも前進はしている。

 その一方で、彼女自身はどうだったのだろうか。

 彼女の『奇行』や『暴言』が、ゴシップ誌やタブロイドの格好のオモチャにされ続けていたことは、否定のしようがない事実だ。メディアは彼女を面白おかしく取り上げ、蔑んで笑っていただろう。ところが、彼女の訃報が流れた途端に掌を返したかのように「聖女」扱いだ。

 奇人変人として搾取をし続けたのに。死後には聖女や殉教者のように扱って、アイコン化というかたちで単純化し、彼女の言葉を、行動を、功績を、搾り取るだけ搾り取ろうとしているかのようだ。あまりにもやりきれない。

 自分はただの一ファンでしかない。それ以上でも以下でもない。けれども、連日の報道を見ていると気が萎えてくるのだ。

 空蝉たちはあまりにも軽佻浮薄だ。洋の東西を問わず、あまりにも卑しい。

今はただ、安らぎを祈って……。

 最後に、オーデンの詩から一部を引用して今回は仕舞いにしよう。

Mad Ireland hurt you into poetry.
Now Ireland has her madness and her weather still,
For poetry makes nothing happen: it survives
In the valley of its making where executives
Would never want to tamper, flows on south
From ranches of isolation and the busy griefs,
Raw towns that we believe and die in; it survives,
A way of happening, a mouth.
――「In Memory of W. B. Yeats」 W. H. Auden