紙媒体版「EQPのセオリー」オンデマンドにて販売開始です。やっとこさ、販売開始。長かった。本当に長かった。
当初の予定では今年の4月ぐらいには完成しているつもりだったのだが。今年は色々とあったりなかったりで、挿絵制作が思うように作業の手が進まず。こんなに伸びてしまった。
本編の内容そのものはサイトにて連載されているものとほぼ同一(誤字脱字が修正されていたり、校正の過程で文章が微妙に変わっていたり、一部本筋とは関係のない些細な事柄が書き換わっていたり。違いはそんなところです)。付加要素は、オマケの短編「ダーティー・ディテクティヴ」と、巻末付録の年表まとめといったところでしょうか。
特に、短編「ダーティー・ディテクティヴ」は以前サイトにて公開されていたバージョンに大幅修正が加えられており、良くも悪くもダグラスとパトリックの印象が変わるかもしれない内容になってます。興味のある方はお買い求め頂ければ幸いですー。
以下は製作に関する愚痴と、最近のあれこれです。
挿絵の絵柄選択はミスったなと思ったよ、正直ね。
これは表紙絵の線画。ユン&ユニ姉妹の目鼻立ちは、祖母(?)キャロラインに目元は寄せつつも顔の骨格は日本的美少女像に寄せてたりする。地雷系とかを好む子たちはこういう顔が好きなのでは、みたいなことを思いながら描いてました。
そして、挿絵。こちらも表紙絵とテイストは同様。
(☝この絵は左右反転をゴチャゴチャ繰り返しながら描いていた。そのせいか、完成後に「アーサーの髪型アァァァッッ!!前髪の分け目が、逆!!」というあるまじきミスが発覚。絵そのものを左右反転したあと、ベルトやネクタイピン等々の向きを修正するという作業に追われた)
とにかく普段より細かい絵で、マジで面倒くさかった。線をサササッと引いた後にカケアミ消しブラシで消して、また線をサササッと引いて消して……――の繰り返し。時間が溶ける溶ける。
普段の絵柄が「粗削りなタッチ」であるため、この細かい作業がマジで苦行だった。
そのおかげで今は、暫く絵を描きたくない気分になってます。
ただ、これで終わりではないですからね。まだ次が控えている。ヒューマンエラー、DT//S、そしてWUtB×2冊、AfL×3冊、JJ×5冊。それが残っている。今回仕上がったのは、まだ1巻目でしかない。
気が遠くなる。あー、あー。
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アーサーの服装に関する話:10月22日追加
↑↑の画像でも分かる通り、挿絵版のアーサーの装いは「肩掛けジャケット:over the shoulder」になっている。んで、今後も挿絵版の彼はこういう方向性で行こうかなと決めた。
アーサーはひどい撫で肩を持つキャラクター。しかし、同時に「見かけ倒しとはいえ)十分な威厳/威圧感を放っている」「喪服然とした黒スーツをパシッと着こなしている」という特性を持つ。が、これら特性の兼ね備えをヴィジュアル化する工程が困難を極めていた。
だって撫で肩には威厳がない。ああ!!
そんなこんなで悩みながらも「ジャケット、ジャケット、撫で肩をかっこよく見せるジャケット……?」と大量の写真を見て回ったわけだが。現実だと、肩パッドしか解決策がないような気がする。でも、アーサーの場合は肩パッドすら変に浮きそうな撫で肩なわけで。
うーん、う~~~~~~~~~ん……と悩んでいた折。偶然、見つけたのが「ジャケット肩掛けスタイル」の写真だった。この発想、自分の頭の中にはなかった。そうか、こういう解決策があったのか……と目から鱗で即採用。でも、考えてみればチェスターコートとかって肩掛けスタイルしてるひと居るもんね。ジャケットでもアリだよな。
というわけで、アーサーはあんな感じのスタイルになった。
彼のキモい体型に一番しっくりハマったのは、真ん中のスタイルだった。 撫で肩ゆえ、ジャケットがずり落ちぬようクリップで留めれば◎。 |
もともと「アーサーの外套はケープ付きのインバネスコート」という設定があったこともあり、違和感なく「アーサー=肩掛けスタイル」が自分の中に定着した。あと、かっちりしたドレスコードを守……らずに破りまくる若かりし頃のアーサーの場面が作中にあったことも相まって、導入しやすかったのもある。「正しいスーツの着方」とか鼻で笑ってスルーしそうだもんな、あいつ……。
……というのは、まあ、自分向けの備忘録みたいなものです。ともかく、以後はこんなかたちで彼を描いていく。「フォーマルな場には正しくない」といった苦情は無視しますのでご容赦を。
「クーフィーヤ」のはなし:10月22日追加
気付く人なんかそうそう居ないだろうな、と思いつつ。一応ここに書いておこうかと思いましてね。
挿絵の中でペルモンドが首元に巻いているスカーフ。これはクーフィーヤ(カフィーヤ)を意識して描いてます。今回が初めてというわけではなく、彼の首巻きはだいたいクーフィーヤである。
これは去年だか一昨年だかに描いたやつ。 |
去年、一気に書き上げた顔グラのやつも、首元に。 |
正直なことを言うと、こういうキャラクターを生み出したことへの罪悪感みたいなものが少なからずある。「こういう世界はありえないだろうけど……」と思いながら作ったフィクションの歴史に、現実が近づいた瞬間に覚える恐怖もとい罪悪感は……ーーなんと言い表せばよいのか。
自分がつくった「架空の世界の歴史」では、201X年にイランがイスラエルに核爆撃を仕掛けてからのアメリカ参戦でシナイ半島も湾岸諸国も……そして一致団結したイスラム世界を西側とくにアメリカが危険視して、イスラムに関連した「あらゆる文化/言語」果ては「民族」までもを300~600年ぐらいかけて徐々に消し去ってしまう……という「めちゃくちゃなif」が展開されていた。無論、これは「どんなめちゃくちゃも実現してみせるデウスエクスマキナ」という概念があったうえでのフィクションだったわけだけど。
でも2010年代は終わって、今は2023年である。もうこんな世界線はありえないだろ~とタカをくくっていた矢先に起きた、この現実。
あんなの現実で起こってほしくないし、見たくもない。こんな小説など荒唐無稽だと笑い飛ばして欲しい。この考えすらバカげてるなと冷笑する声も頭の中にはあるけど、でも真剣にそう思う。
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測定執着、およびグローバルの欺瞞
胸糞悪い😖
— 暘 弥涼🚚💨💨💨HINO de ISUZU (@Isuzu_Hinode) September 5, 2023
測定執着というかさ。数値化というかたちで「単純化」すべきじゃない事柄ってあると思うんですよ、多様性なんてまさにそれ。たった一人を切り取ってみたとしても、いくつかの属性・背景・事柄がオーバーラップしているはずなのにさ。それを一つの数値にするだって?
いい加減にしてほしい。 https://t.co/WFZcOjKppC
何度でも繰り返し述べたい。人間を数値化して振り分けようとするな、と。
このようなセリフは今年に入って急に言い出したわけではなく、もうずっと、最低でも9年ぐらい前から言っている。約5年前に書いた「アンセム・フォー・ラムズ」の中にも、そういう一文は含まれている。
「アンセム・フォー・ラムズ:ep.12 - What will be, will be」より |
IQという概念の必要性は分かる。それは如実に社会生活へ深刻な影響を及ぼしてくるものであり、IQが低いと分類された人々にはやはり支援が必要であるからだ。しかし。昨今、取り沙汰される「境界知能の支援取りこぼし」の問題は、IQというかたちで知能を数値化したことによって発生している側面は否めないと考えている。
この数値以下は知的障害、この数値以上はとりあえず健常、というラインを設けてしまったことによって「ギリギリのところで知的障害者に割り振られなかった者」が発生していて、診断上は知的障害者ではないからこそ支援に繋げられなかった者もいる。そして、その問題は「悪意無き子殺し」といった社会的にインパクトのある事件が発生して初めて大衆の目に触れる。――こういう社会構図は非常に冷酷だ。
IQですら、こういう問題を引き起こすなら。まだ新しい概念、EQやらHQやらSQやらなんやらかんやらを気軽に濫用するべきでないと思うんですよね、人を測る場面において。
あなたは筆記試験の結果、EQの値が低いと出たため不採用です。お祈りお祈り。――だなんていうふざけたことが起きてはいけない。が、こういう事態は起きようとしている。というか、起きている場所では既に起きているんだろう。
過度に内向的な人物だから、穿ったことを言う人物だから、空気が読めず辛辣なことを言いがちな人物だから、時代遅れの宗教を信仰して現代科学を否定している人物だから等々といった理由で「EQが低い」と断定し、どんどん人を足切りした先に待っている組織/社会ってなんだろう。同じような価値観を共有する(とされている)人間しか留まることができない、閉塞感溢れる地獄ではなかろうか。それって、本当に素晴らしいものなのかい?
勿論、想像力や共感力はあるに越したことはないし、それを鍛えるカリキュラムのようなものはあってもいいが。だが、何らかの特性とか性格的なものが理由でそれを持ち合わせていない者を非人間のように扱っていいわけがないし、マウンティングのための物差しにしていいわけがない。だが、現状はそうなっているよね?
EQが低いやつは共感性も協調性もない反社会的な人間であり、社会に出てくるべきじゃない人間のクズなので、トラブルを避けたかったら真っ先に切り捨てるべき人材です。といったことを暗に書いている記事は、ちょくちょく見かけますよ。主に、ビジネスリーダーだのチームビルディングのうんちゃらだの、カネのニオイにまみれた胡散臭い文脈の中で。
noteとかには、そういうのがいっぱい溢れてますよね。「山田かおる@はにゃへも株式会社採用担当」「Professor Beautiful Mind|結束力高めるチームづくりアドバイザー」みたいなアカウント名で、そういうの垂れ流している人間は仰山おりますよね。ね???
そういう記事を発信する前に、身に着けるべきもの、鍛えるべきものがあるよね。概念を一度は疑ってみるクセとか、反対意見を想像する工程とかさ……(まあ、そういう記事を垂れ流しできる方々は、同じような生き方をしている人間同士としか交わらず、それ以外の世界なんて見ようともしないんでしょうけども)。
そんなーこんなーで、やれEQだなんだーでも十分に厄介な事象を内にはらんでいるというのに。そこに更なるカオスを呼び込むものが来た。
多様性の数値化。
どういう人生を生きていたらこういう発想が出てくるんだろうね。アテクシにゃ想像すらつかん。
まず、人種の推定。白人、黒人、アジア人……――という括りの時点で盛大にツッコミたい。本来、人種すなわち民族のルーツってそんな単純化していいもんじゃないから!!
一概に白人と括ったって「西側欧州各国出身者」と「スラヴ各国出身者」と「移民ルーツのアメリカ人」「移民ルーツの南アフリカ人」で違うだろうし、白人のアメリカ人ったって「アイルランド系」だの「イタリア系」だの「オランダ系」だのなんだのと別れるだろうし、ミックスルーツだったらどうすんねん!!!
黒人という括りとて同じ。「アフリカ各国出身者」と「奴隷をルーツに持つアフリカン・アメリカン」では全然違ってくるだろうし、「アフリカン・アメリカン」だって地域によって「北米」「中米/カリブ海」「南米」でアイデンティティは大いに違うだろう。それにアジア圏で生まれ育ったアフリカ系諸民族の血を引くミックスルーツの者は、上記いずれとも親しみを持てない可能性だってある。それに、アメリカ式の雑なくくりならポリネシア地域の人々も「黒人!!!!」という横暴をやりかねない(無論、黒人奴隷を祖先に持つ者がポリネシア地域にいないわけではないだろう。とはいえポリネシア系はポリネシア系である、アフリカ系ではない)。
それに「アラブ人」と雑に括ったところで、じゃあアラビア半島の民族間紛争はどう説明しますか、ってなるし。「白人」「黒人」「アジア人」といった乱雑なくくりの中ではイラン系諸民族の扱いはどうなってるの、となるでしょう(語派の隔たりの差を侮ってはいけない、それ即ち文化慣習の大きな違いを意味する)。
そして一番ムチャクチャなのが「アジア人」。だって、インド人と日本人が同じ「アジア人」だと言われて、しっくりくる人間がアジア圏とされている地域にいるとでも??? 日中韓が一緒くたにされてしまうのは文化的繋がりが強い以上まだ理解できるが、それ以外の地域とまとめてしまうのは無理があるぞ?? 使ってる文字も文化も慣習も全然違う国と一緒くたにされて「はい、我々は同じアジア人です」だなんて納得できるわけがないし、アジア圏に関して言えばそういった雑なくくりは拒んでいくべきとさえ思うわい! だって、アジア人って何さね! 共通項なさすぎるわい!!
つーか、アジア圏とされている地域に、どんだけ語族があると思うてんねん!!!!(チュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族、シナ・チベット語族、ミャオ・ヤオ語族、オーストロアジア語族、タイ・カダイ語族、朝鮮語族、日琉語族、アイヌ語、ドラヴィダ語族、大アンダマン語族、オンガン語族、ブルシャスキー語、クスンダ語、ニハリ語。以上! まあ、アメリカ大陸先住民族語やポリネシア地域のほうがもっともっとカオスなんだが!!) インド・ヨーロッパ語族しかない西側の視点では理解できないカオスなんだぞ、「アジア圏」っていう広すぎるくくりは!!! アジア人と雑に括れるほど、アジア圏は単純じゃねぇ!!!!!
ルーツでさえ、この通り厄介だ。というか、こと人種やら民族ルーツについては他者やAIが勝手にラベリングしていいもんじゃないと思う。本当に、本当に、勝手に分類していいもんじゃない!!!!
そんなルーツに加えて、更にジェンダーや年齢での「多様性の数値」も測るわけでしょ? 頭のネジがどうなってんだ、と真剣に問い質したい。馬鹿なの?
年齢なんて、見た目での判断は意外とアテにならない。年相応って実は少なかったりする。最近は特に、スキンケアやら化粧やら、そもそもの生活習慣やらの影響で実年齢より圧倒的に若く見える人が多い。本当に多い。正しい計測なんて無理だ。
それにジェンダーなんて見た目じゃ分かんねぇし、他者やAIが勝手にラベリングしていいもんじゃないと思う。本当に、本当に、勝手に分類していいもんじゃない!!!!(再)
それから、多様性って見た目やら「ジェンダー」という分かりやすい指標だけで測っていいもんじゃない! 人それぞれ、出身地や思想だって異なる。同じ家庭で同じように育てられたって考え方の違う別人になるし、それも極論、多様性の一つだ。
件の記事に出てくるAIは、きっと「白人・男性・30代」だとしたら多様性スコアを低く見積もるだろうし、「アジア人・女性・20代」なら多様性スコアを高く見積もるのかもしれない。が、仮にどちらも「グローバル社会のエリート出身・アイビーリーグ卒」であったら結局のところ中身は同じようなものといえるかもしれない。もしくは「白人・男性・アセクシャル・30代・低所得者層出身・父親は早逝・母親はエッセンシャルワーカー」「アジア人・女性・ヘテロセクシャル・20代・富裕層出身・父親はパイロット・母親は医師」だとしたら、どちらのほうが多様性のスコアが高くなるのだろうか。
こう考えてみるとさ、多様性って何ってならん? 疑問に思わない??
インドの低カースト出身者とか、ロシアの東側片田舎出身者とか、中南米からパリに渡ってきた移民を親に持つ治安最悪なゲットー育ちの移民二世だとか、そういう“背景”にこそ多様性の本質ってあると思うんですよ。究極のローカル、そこに眠る闇と光を見なければ、「本物の多様性」「真のグローバル」の萌芽って芽吹かないと思うんです。
トーキョー、ニューヨーク、ロンドン、ケープタウン……そんな「グローバル化の進む都市」だけを行き来して、世界を知ったつもりになっている「肌色/骨格が異なるだけで中身が同じのグローバル・エリート」がもたらす歪な構図。これが各地で起こる分断の根本にあると思えてならない。
グローバル・エリートがこぞって頓珍漢なことを言っているから、それに反発する「どローカルの低層民」が頓珍漢な陰謀論を言い出すわけです。SDGsだってそれそのものは真っ当な目標であるはずなのに、実際に推し進めようとしていることがまるで見当違いだから「はぁ???」という顔をされるわけだ。
そういったグローバル・エリートが垂れ流す見当違いな言説を真に受けて、頓珍漢な横文字を使ってはドヤ顔を決める一部ジャパニーズの痛々しい姿を見ながらそう思う。
とかなんとかと書きなぐってたら、自分でもわけわかんなくなってきたや。とりあえず、ここ1カ月ぐらいの間に「これ言いたいのに、あぁ、どこに出せばいいのか!!」と溜め込んできたものを大放出したかたちだ。まとまりはない文章かもしれないが、伝われ。伝わってくれ~。